スピリチュアル的に見る天罰がくだる人の共通点や特徴
悪い行いをしていても幸せそうな人やずる賢く生きてる人を見ると、「なぜこうった連中に天罰が当たらないのだろう」と苛立つことはありませんか?自分ばかりが傷ついて、嫌がらせをした当人には何のダメージもないと、人生は不平等だなとやさぐれたくなるでしょう。今回は、天罰がくだる人の特徴を解説します。また天罰を受けたときの対象法や考え方を紹介するので、天罰に対して理不尽を感じている場合はぜひ参考までにご覧ください。
そもそも天罰とは?
天罰とは、天界が罪人を裁くことを指します。スピリチュアルの世界において、悪事を働いた人や他人を傷つける言動をとる人は、相応の罰が下されると考えられています。罰と聞くと恐ろしい呪いのように感じるでしょうが、言い換えれば天罰とは、犯した罪の重さを諭すための天界からの助言なのです。中には相手を傷つけているのに幸せな生活を送る人もいますが、それはまだ天罰がくだっていないだけの話で、因果応報の言葉通り自分の行いは必ず返ってきます。
天罰がくだる人の5つの特徴
反省しない
罪を犯してすぐに天罰がくだる人もいれば、何十年経って忘れかけていた頃に天罰がくだる人がいるなど、タイミングはそれぞれです。善悪の判断がつかず正当化ばかりしている人へ天罰をくだしても反省をしないため、「今なら罪の重さを理解するだろう」と判断したときにくだされるのです。いつまでも他人を傷つけ悪事を続ける人が能天気に生きていることに理不尽さを感じることがあるでしょうが、その分罪の重さが蓄積されて膨れ上がったころに当人の身にしっかりと降りかかります。
他者を傷つける
罪を犯すとは犯罪や法律違反だけではありません。いじめやパワハラ、弱者をバカにし続けるなど他人を傷つける言動はすべて罪に該当します。ストレス発散の目的や自己顕示欲を高めるために他人を傷つける行為は卑劣そのもの。嫉妬心や劣等感に苛まれている魂レベルが低い人が行う行為であり、傷つけられている側には問題はありません。場合によっては「相手のため」と自分を正当化して恩を着せようとする人までいるでしょう。そのような人もいつか自分の行いが間違っていると天罰を下されたときに気づきます。見方を変えれば劣等感を抱えて卑屈になっている時点で、自ら不幸体質を作り出すという天罰が下されているのかもしれません。
私利私欲が強い
人を傷つけないことが罪ではありません。他人に無関心で手助けをしない私利私欲にまみれた人にも天罰がくだります。電車で高齢者へ席を譲らず座り続けたり、他人に助けてもらうことが当たり前だったりするとつらい境遇に追い込まれる天罰がくだるでしょう。誰かの助けが必要な状況に陥ってようやく他人の優しさやありがたさに気づけるのです。私利私欲にしか興味がないネガティブエネルギーに支配されていることと、あえて他人に無関心でいる優しさはまったくの別物です。
ネガティブ思考が強い
天罰がくだる人は他者を傷つける人や相手の気持ちを理解しない人だけではありません。自分自身を大切にしない人にも天罰がくだります。特に被害者意識が強く常に負のエネルギーに支配されていると、相手を恨むだけではおさまらず最終的に自分を卑下してしまうのです。すると憑いている守護霊のランクが下がり道を外れたり不幸に遭遇しやすくなります。被害者意識は自分自身の美しい魂を自ら汚す行為であると同時に、つらい記憶にいつまでもしがみつく行為自体が不毛で得られたはずの幸運を逃しているのです。反省は良い行いであり他者を責める感情も仕方のないことですが、負荷がかかるほど極端な思考は身を滅ぼします。天界は自力で立ち上がるという天罰をくだしているのかもしれません。
人の不幸を願う
罪とは他者に傷害や暴言といった直接的な危害だけではなく、成功や幸福を妬み不幸を喜ぶのもまた罪なのです。友人や家族の幸せを手放しで喜べず、粗探しをして不幸のもとを探すような心の狭い人にも必ず天罰がくだります。「なんであんな人が幸せになれるの?」「あの人のどこがいいの?」と相手をさげすむ気持ちが念となり相手を呪います。その呪いが伝わり相手が不幸になるほど幸福感を感じるでしょうが、「人を呪わば穴二つ」ということわざがあるように相手に送った呪いが跳ね返り自分自身が不幸になるのです。傷つけた相手を恨む気持ちが増幅すると呪いへ変わります。もし傷つけられた自分だけが今もずっと不幸な場合は、相手への怨念が邪魔をして無意識に自らを不幸にさせているのかもしれません。それは「どんなことがあっても人を呪ってはいけない」という紛れもない天界からのお告げであり天罰なのです。
天罰がくだらない二種類の人間
天罰がくだるレベルに達していない
傷つけられた相手が幸せそうに過ごしていると「自分だけがつらいのか」と悔しくなるでしょう。しかし、相手に天罰がくだらないのは天界が悪事を赦しているわけではなく、魂レベルが低いため単に相手にしたくないだけなのです。もとを辿れば人生とは魂が成仏するための修行であり、様々な試練を与え乗り越えられた魂のみが仏に近づけます。天罰はつらいものではなく自分を成長させるためのありがたい試練なので、天界のお告げを理解できる魂レベルに達したときにようやく天罰がくだるのです。今は平穏に暮らせていても時期が来たら相応の天罰を受けるでしょう。一向に天罰がくだらない人は魂が濁りすぎて神様が見放したのかもしれません。神様からの施しを受けられない魂は放っておいても勝手に破綻の道を歩むはずです。
反省し感謝をしている
人を傷つけたのに幸せそうな人は、一見すると天罰がくだっていないと思うでしょうが天界は万人平等に施しを与えます。人は誰しも道を外し失敗をするものであり、故意に人を傷つけることもあるでしょう。ただし、魂が清らかな人は自分の行いを猛省し罪悪感を抱きます。そのため、天罰がくだっても不平不満を言うことなく「教えていただきありがとうございます」と感謝ができるのです。天罰の理由をしっかり理解し戒めているので、たとえきつい施しであっても甘んじて受け入れるので、天罰がくだっていないように見えるだけなのです。
天罰がくだらない人への対処法
相手にしない
自分だけがつらい理不尽な状況が続くと、「天罰がくだらないなら自分の手でやり返すのみ」と過激なことを考えるかもしれません。しかし、傷つけられた分の天罰が相手にくだるので天界に任せましょう。相手を赦すことが心を浄化するベストな対処法ですが、傷が深いほど簡単には許せないはず。そして正しい怒りは正当防衛なので赦せるまで時間がかかってもいいのです。ただし、怒りに苦しむ最中でも相手は平穏に暮らしていると考えると、怒りに消耗する時間とエネルギーは不毛なことこの上ないのです。相手を考える時間を減らして頭の中から存在を消しましょう。
悪事をすれば誰でも天罰がくだる
天罰を願っているということは、やり返すのが無意味だとわかっている聡明な人なのでしょう。その時点で相手の魂レベルとは雲泥の差をつけ勝っているのです。しかし、神様は敵を討つための存在ではなく、あくまで人間を正しい方向へ導く役目を果たしているもの。天界に代わりに罰を下してほしいと願うのはお門違いなのです。私ばかりが不幸なのは理不尽だと思い悩むよりも自分自身のこれからの幸せを願いましょう。